なぜポルシェの鍵は左にあるの?|永井先生の自動車講座
初めてのポルシェ、いざ乗り込んでエンジンをかけようとすると右手が迷子になってしまう。その理由は、おなじみの場所にキーシリンダーや始動スイッチが見つからないから。視線を反対側へ移すと、ドアに近い左側にある。少し変わった配置だけど、そこにはレースで一秒でも早く走り出そうとした、ポルシェの歴史が残っています。
クルマに乗り慣れた人ほど、困惑してしまう?
多くのクルマでは、エンジンを始動するための鍵穴やスイッチは、ステアリングの右側に置かれています。運転席に座れば、自然と右手を伸ばす位置です。ところが、ポルシェはその逆、鍵穴やスイッチはステアリングの左側です。
この配置は、鍵を差して回していた時代のモデルだけに残るものではありません。始動方法がスイッチ式へ変わった現在も、ポルシェはその位置を左側に残しています。単なる古い設計の名残ではなく、メーカーが意識的に受け継いできたレイアウトなのです。なぜ、ポルシェは左側にこだわるのか。
その答えは、かつてのル・マン24時間レースにあります。
24時間を争うレースは、乗り込むところから始まった
フランスで開催されるル・マン24時間レースでは、1925年から1969年まで「ル・マン式スタート」と呼ばれる方法が採用されていました。
ホームストレートの片側にマシンが並び、その反対側でドライバーが待機する。スタートの合図が出ると、一斉にコースを駆け抜け、マシンへ飛び乗ってエンジンを始動。そのままレースへ向かうという、いまでは考えにくい方式です。
24時間も走るのだから、スタートの数秒くらい大した差ではない。そう思ってしまいますが、レースである以上、わざわざ出遅れる理由もありません。ドライバーが走る速さはもちろん、乗り込み方やエンジンを始動するまでの手順にも、時間を縮める余地がありました。
ポルシェが公式に語る左側イグニッションの由来も、このル・マン式スタートにあります。

左手でエンジン始動、右手で1速に
ドライバーがマシンへ乗り込んだあと、イグニッションが一般的な位置にあれば、まずキーを回し、それからシフトレバーへ手を移すことになります。そこでポルシェは、イグニッションをステアリングの左側へ配置しました。左手でエンジンを始動しながら、右手はすでにシフトレバーへ。ふたつの動作を順番に行うのではなく、左右の手で同時に済ませれば、わずかでも早く走り出せます。
節約できるのは、ほんの一瞬です。それでも、その一瞬を取りにいく。左側の鍵穴は奇抜なデザインではなく、レースで勝つために考えられた、極めて合理的な配置でした。左手でエンジンを起こし、右手で走り出す準備をする。
ポルシェの運転席に残されているのは、鍵穴だけではありません。かつてのドライバーがスタートラインで行っていた、身体の動きそのものです。
時代が変わっても、歴史を踏襲してきた
ル・マン式スタートは、安全性への懸念から1969年を最後に姿を消しました。1970年にはドライバーが最初から車内で待機する方式へ変更され、翌1971年からは現在につながるローリングスタートが採用されています。
スタート方式が変われば、左手でキーを回しながら右手でギアを入れる必要もありません。まして現在は、鍵を差し込まずに始動できるクルマが当たり前になりました。
それでもポルシェは、始動装置の位置を左側に残しています。タイカンでは、キーの代わりとなる電源ボタンも同じ場所。かつてスタートの時間を縮めた配置は、実用上の役割を終えたあとも、ポルシェへ乗り込むときの作法として生き続けています。
いま左手を伸ばして得られるのは、レースの数秒ではありません。運転席に座り、これからポルシェを走らせるのだと、気持ちを切り替える短い儀式です。
ポルシェの鍵が左側にあるのは、最初から伝統を演出するために考えられたデザインではありません。勝つための合理が先にあり、それが長い時間の中で、そのメーカーらしさへ変わっていったのです。
たとえ近所のスーパーへ向かうだけでも、左手を伸ばす一瞬だけは少し特別です。街の道へ出る前に、かつてル・マンのスタートラインで使われていた動きをなぞる。その小さな手順まで含めて、ポルシェなのでしょう。だから我ら男子は、いつまで経っても911に憧れてしまうのです。

Photo:Tomoro Nakasuji/Instagram@tomoro
Edit:Kanta Hisajima